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渋谷でしか味わえない体験情報

渋谷ハチ公

渋谷の待ち合わせの場所として誰もが知る忠犬ハチ公像は、時代、世代、国を超えて、
渋谷のシンボルとして認知度は高まり愛され続けています。ここ数年、海外からの観光客が、
渋谷を訪れる目的は「ハチ公像」と「スクランブル交差点」観光スポットしても
有名な渋谷の代名詞のハチ公は、渋谷区の施設のロゴマークや、渋谷区内を走る便利な
コミュニティバス「ハチ公バス」の名称他に幅広く使われています。

 

2016年11月でハチ公は誕生から93年を迎えます。

 

ハチは秋田犬(あきたいぬ)の牡で、1923年(大正12年)11月に秋田県大館市で生まれました。
生後2か月の時に当時の渋谷町大向の一角(現在の東急文化村付近)に住んでいた
東京帝国大学農学部教授・上野英三郎博士が譲り受け「ハチ」と名付けました。

 

上野博士は大変ハチを可愛がり、ハチも博士によくなつき、博士の出勤時の
渋谷駅改札口までの見送り、そして夕方博士が戻るころになると毎日改札口の前で
博士を待ち、一緒に帰宅するのが日課でした。

 

こうした生活は約1年3か月続きました。1925年5月21日博士は会議中に倒れ急逝されました。
そんな事情を知らないハチは毎日渋谷駅へ行き改札口に座り、風雪雨、寒暖を問わず博士を
待ち続けるハチの姿に渋谷駅員、駅の利用者、駅周辺の人々も心を打たれました。
1932年(昭和7年)10月4日の東京朝日新聞に「いとしや老犬物語」の見出しでハチの
事を報じると日本全国から渋谷駅に現金や食料などが送られてきました。

 

ハチの名前は全国に知れ渡り当時の世相から「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになりました。
地元、渋谷の有志たちは「ハチ公こそ渋谷の誇り」と称えハチ公が元気なうちに銅像を
建てようと動き出しました。銅像建設資金は順調に集まり1934年(昭和9年)4月21日
安藤照制作の初代忠犬ハチ公像が建てられました。

 

現在のJRハチ公口よりも南側に設置されました。翌年1935年(昭和10年)3月8日に
ハチは13歳で病死し、その亡骸は剥製にして国立科学博物館に保存され、
又青山墓地の上野博士のそばに碑が立てられました。

 

ハチ公銅像は、戦時中の金属回収により供出されましたが
1948年(昭和23年)8月15日に二代目のハチ公銅像が再建されました。
二代目の銅像は初代を制作した安藤照氏の子息安藤士が制作しました。
現在も毎年4月8日には渋谷駅ハチ公前広場では「ハチ公慰霊祭」が行われています。
ハチ公の歴史やハチ公をもっと知りたい方は
白根記念渋谷郷土博物館・文学館へ是非おでかけください。

 

History of Shibuya

 

渋谷の歴史は2万5000年前の旧石器時代まで遡ります。
昔は海の近くで、台地部分が海面から頭を出していた程度だったようです。
今日まで長い歳月をかけ変転を繰り返して来ました。

 

渋谷の歴史の舞台の大切な要素となったものは「一川五丘廿谷」と言われました。
渋谷川を中心に広がった台地と、台地の間の多数の谷。代々木99谷と呼ばれる程でした。
大きなスリ鉢状の多様な地形の表相は、後に渋谷に産業、交通、集落、行政の上に恵と多角性を与えました。
石器時代の渋谷は36か所の集落を持ち日本全体としては人口稠密な土地であり代々木八幡の
住居地をみても安住の地として落ち着いて生活できる場所でした。

 

弥生式土器文化時代に入り稲作が始まりますが沖積低地の狭小と酸性の土壌は、
原始農業には合わず人口も減り文化も地方化していきました。
紀元7世紀頃から再び人口も増加し田園の開拓が進み、円墳と横穴墳が発見されています。
王朝時代になると北三田庄あるいは喜多庄として当時の所領関係が設定されたらしく、
ここに渋谷氏が入って渋谷城(渋谷城の本丸跡=金王八幡宮境内)を中心に
地方の一行政中心となったと伝えられています。

 

大永4年(1524年)の北条氏綱による関東攻略の際に、この城は北条氏の別働隊によって焼失し、
渋谷氏は滅びました。渋谷氏(渋谷区金王丸常光)を中心とする源氏諸将の伝説が、
社寺や地名として残っています。

 

渋谷区にもいくつかの鎌倉道が通じていて、中央の新しい文化の伝播や渋谷区の開発も、
この鎌倉道周辺から進んでいきました。北条氏全盛時代には
下渋谷区・原宿・千駄ヶ谷・幡ヶ谷に村落が発達しました。

 

徳川時代には下渋谷区・原宿はいわゆる江戸御府内に属し、もっとも開けた存在でした。
江戸時代の渋谷区は、諸侯や寺領のほかは幕府の直轄地として統治されていました。

 

渋谷区の丘はほとんどが武家屋敷で、低地の水田地帯には農家が点在し、
宮益坂と元広尾には商家がありました。
渋谷区の地域は、江戸市街の繁昌にともない、遊山地としても有名になりました。

 

広尾原の野花に秋虫、代々木野の野草、大師霊場巡り、金王桜等をはじめ
神社仏閣の境内も遊山地として知られていきました。

 

明治維新を迎え広尾、宮益の町屋としての発達はこのころから進み、
明治18年山手線開通によって都心との連絡がつくようになり
新しく住宅地として変化を遂げ田園風景は次第に消えていきました。

 

戦後の渋谷の復興は目覚ましいものがあり、昭和30年ごろを境にして高層ビルが続々建設され、
商業地区に加えて業務地区といわれるオフィス街が生まれ副都心化が進みました。

 

昭和39年のオリンピック東京大会を機に、道路の新設、拡張工事があいつぎ、
渋谷区の街並みは大きく変わりました。1965年には渋谷区総合庁舎や渋谷区公会堂が完成。
また地方自治法の改正により、福祉事務所などの事務が都から移管されました。

 

昭和になっても郊外の一都市でしかなかった渋谷が、1964年の東京オリンピック以降に
大変貌した姿は、2020年のオリンピックへの指標といえる歴史を含んでいます。
現在、再開発が進む渋谷駅は、2027年までに段階的に3本の超高層・高層ビルが建て替えられます。